ガクエンセイシュンラブコメディ
■1
教室の窓から外を見やると、青い空に鱗雲が浮かんでいた。
開け放たれた窓から秋の空気を孕んだ優しげな風が舞い込み、僕の髪を揺らす。太陽は出ているが日差しは強くない。ついこの間まで感じていた夏の気配は、もうすっかりなりを潜めていた。
教室の窓から一望できるグラウンドでは、体育の授業なのだろう、バスケットボールの試合が行われていた。スリーオンスリーで、コートの周りを囲むように数名の生徒が座っている。三階の教室であるここからでは相手の顔までは識別できないが、彼らがアジアクラスである事はすぐにわかった。黒い髪に小柄な体躯は彼ら特有だ。それに、彼らが集まると賑やかなのはこの学園では有名で、現に今も歓声や大きな声が僕の耳にまで届いている。
僕はしばらくその試合を目で追っていたが、一番体格の良い少年がゴールに向けてシュートを放ったところで、視線を前方へと戻した。窓の外から残念そうな声とブーイングが聞こえてきたので、どうやら外したみたいだ。
教壇では教師がホワイトボードにマーカーで単語を書き記しながら教科書を読み上げている。あごひげを生やした、愛嬌のある教師だが、ひどくマイペースで、僕はこの人の授業があまり好きではなかった。
自然と漏れるあくびをかみ殺して、視線を机に投げ出した己の手首へと移動させる。少し古い型の腕時計が、チクタクと一定のリズムで秒針を動かしている。
ベルが鳴るまであと二十秒。僕は秒針を眺めながら心の中でカウントダウンを始める。十七、十六、十五……四限目の終了を知らせるベルは、あと三秒というところで教室に鳴り響いた。
その瞬間、僕の右斜め前に座っていたデンマークさんが勢い良く立ち上がった。
「飯の時間だっぺ!」
彼は威勢良く言い放つと、彼の隣に座っているノルウェーさんの腕を掴んだ。授業中舟を漕いでいたノルウェーさんは寝起きの不機嫌そうな表情でデンマークさんを睨む。けれどもデンマークさんはそんなものを気にする様子なんて全く見せずに、軽々とノルウェーさんを脇に抱えて教室を飛び出していった。
廊下からデンマークさんの笑い声やノルウェーさんの恨みのこもった怒声が響いたが、それもすぐに遠ざかって消えていき、教室は再び静寂に包まれる。取り残された生徒たちは教科書を畳んで教師の言葉を待っていた。教師は呆れたような困ったような曖昧な笑みを作り、ようやく授業の終わりを宣言した。
教師の言葉を合図に、生徒たちがまばらに席を立つ。先ほどまで静かだった教室にざわめきが広がっていく。近くの席の女生徒たちが、今日の昼食をどうするか楽しそうに話しながら連れ立って教室を出ていった。
僕は机に広げられた教科書とノートをひとまとめにして抱え、席を立った。
僕がこの学校に通い始めて、そろそろ一年になる。
世界w学園は国ばかりを集めたという少し変わった趣旨の学校で、最初の頃は戸惑う事ばかりだった。しかし三ヶ月も経つ頃には学園にも慣れ、今ではすっかり生活に馴染んでしまっている。
今まで学校なんて全く縁のないものだと思っていたが、実際に通ってみると案外楽しい。もともと勉強は嫌いではないし、様々な国と交流できる機会があるのはありがたい。
歌が好きな面々と結成した合唱部も、学園生活の楽しみの一つとなっている。
総じて見れば、僕はこの学園生活を謳歌していると言えるだろう。
ただ一つの問題を除いては。
廊下は授業を終えた生徒たちで溢れていた。
僕は壁際に設置された専用のロッカーに教科書を放り入れ、彼らの合間を縫うように歩き出す。向かう先は食堂だ。朝から続いた授業のおかげで、腹は丁度良い具合に減っている。
食堂は玄関のすぐ横に位置している。豊富なメニューに凝った味付けで、ここを利用する生徒は多い。僕自身そうグルメというわけではないが、時々美食部の人たちを見る事もあるので、味は確かなのだろう。広さも十分にあり、席の争奪があまり起こらないのも人気の理由かもしれない。
入り口に掲げられたメニューには写真とともに様々な国の料理が羅列されている。食べた事のない料理も多く、せっかくだから僕はメニューの上から順に注文する事にしている。昨日食べたガパオという料理はタイさんの家の名物らしいが、独特な風味でおいしかった。ただ、上に乗っている癖の強いハーブだけはそっと皿の端に寄せたけれど。
僕は今日の昼食を決めるべく、指でガパオの文字を探す。そしてその真下に書かれたメニューを見て――まるで条件反射のように、眉根を寄せた。
「この食堂のボルシチ、結構おいしいよ」
唐突に背後から声がして、僕は思わず飛び跳ねそうになった。振り向かずとも、その声が誰かなんてすぐにわかる。僕がこの学園で最も聞きたくない声。その声に、僕の心拍数は一気に早くなる。じわり、と背中に嫌な汗が浮かぶのがわかった。
いっそ振り向かず、このまま気付かないふりをして逃げてしまおうかと、そんな考えが頭を過ぎる。しかし情けない話だが、僕は背後に立つ人物から逃げきれる自信を持ち合わせていなかった。漏れそうになる呻きを無理矢理飲み込み、できるだけ平静を装ってゆっくりと振り返った。そこには予想の通り、僕より頭半分程大きな男が立っていた。そう寒くないというのにしっかりと首に巻かれたマフラーが小さく揺れる。
「……ロシアさん」
「ボルシチにするの?」
「ええ……まあ」
雪みたいに白い肌に浮かぶすみれ色の目が楽しげに細められる。毛の先がふわふわした薄い金色の髪に、純朴そうな顔立ちのおかげだろう、彼はとても柔らかな雰囲気を纏っている。もちろん、そんな雰囲気が単に表面上のものである事は、付き合いの長い僕にはよくわかっていた。
「僕はねえ、ロールキャベツにしようかな」
彼は僕の横からメニューを覗き込みメニューを指さした。そしてその指をそのまま僕の方へと向けて「エストニアも僕と一緒に食べるよね?」と笑う。やはりそうなるのか、と僕は頭を抱えたくなった。
「リトアニアとラトビアには席取りをお願いしてるから」
ほら、と今度は食堂の中を指し示す。彼の指の先へと視線を向けると、リトアニアさんとラトビアが端の方の席に腰掛けてこちらを見ていた。リトアニアさんは彼に捕まった僕を哀れむかのように苦笑いを浮かべ、ラトビアはどこか安堵したような表情を浮かべている。どうせ僕が増える事でロシアさんの子守という負担が経るとでも思っているのだろう。僕は思わず渋面を作る。いつの間にか彼の手が僕の肩に置かれていて、いよいよ逃げるのが厳しい状況になってしまっていた。
それでも何とか逃げる手だてはないか、と視線をさまよわせながら考える。その時、校舎の方からよく知った顔が歩いてくるのが目に留まった。僕はとっさに彼の名前を呼んだ。
「フィンランド!」
名前を呼ばれた僕の親友は、僕に気付いて笑みを見せた。しかしその笑顔がすぐに苦笑いへと変わる。僕の肩を掴むロシアさんの存在に気付いたのだろう。フィンランドもあまりロシアさんが得意ではないはずだが、それでも無視するわけにはいかないと思ったのか、僕の方へと駆け寄ってきてくれた。
「こんにちは、ロシアさん」
「やあ。君もここでお昼?」
「ええ、スーさんたちと」
僕を挟んでフィンランドとロシアさんが挨拶を交わす。一見和やかなやりとりに見えるが、僕たちの間には妙な空気が漂っている。僕がフィンランドに助けを求めるように視線を向けると、彼はそれに気付いてくれたようで
「エストニアも一緒にって約束してたんです」
と言葉を付け加えてくれた。
「ふうん?」
フィンランドに向かっていたロシアさんの視線が僕へと戻る。彼が、何を考えているのか読めない顔で僕を覗き込んできたので、僕はつい彼から目をそらした。彼は少し間を空けてから、掴んでいた僕の肩を解放した。
「なあんだ、そうなら先に言ってよ」
「すみません……」
残念そうに肩を落とすロシアさんに形ばかりの謝罪を述べながら、僕はロシアさんの射程範囲からさりげなく避難する。彼はあっさりと僕への興味を失ったようで、
「じゃあ、また今度ね」
と笑顔でひらひらと手を振り、リトアニアさんとラトビアが待つ席へと歩いていった。
彼の背中が十分に遠ざかったのを確認してから、僕は息を深く吐き出した。改めてフィンランドへと向き直ると、彼は口許に手を当ててくつくつと笑いを漏らしていた。
「何?」
「いや、君って本当にロシアさんが苦手なんだなって思って」
「あの人が得意な人なんていないと思うけど。でも、ありがとう、助かったよ」
「ううん、どういたしまして」
礼を言う僕に、フィンランドは人の良い笑みを浮かべた。そして食堂の中を指さして言葉を続ける。
「せっかくだしエストニアも一緒にどうかな」
「いいの?」
「もちろん」
フィンランドは首を縦に振る。その後に「ただし」と言葉を付け加え、いたずらっぽく笑った。
「君がスーさんたちの事、苦手じゃなければだけど」
カウンターに置かれたボルシチは、白い湯気と共に空っぽの胃袋を刺激するような良い香りを漂わせている。
さっきの事でメニューを変更しようとも考えたが、料理に罪があるわけではない。僕は手にしたトレイに皿を乗せて、フィンランドたちのいる席へと向かう。彼らは食堂の真ん中に位置する六人席を陣取っていた。
「お邪魔します」
「おー来たけ!」
ここさ座れ! とデンマークさんは隣の空いた席をばんばんと叩く。僕はテーブルにトレイを置いて、デンマークさんの示した席に座った。テーブルにはすでに五人分のトレイが並べられている。授業の終了とともに教室を飛び出していったデンマークさんとノルウェーさんは、もうほとんど食べ終わっていた。
「ロシアの奴から逃げてきたって?」
「はは……そんなところです」
「おめえ本当にロシアが怖えんだなあ」
けたけたと笑うデンマークさんに、僕は苦笑いを浮かべる。彼までフィンランドと同じような事を言う。ロシアさんが苦手であり怖いのは事実なので否定はしないけれど。
「あの人が得意な人なんてそういませんよ」
フィンランドに返したものと同じ返答をしながら、僕はスプーンの先をスープ皿に沈めた。スメタナをつつきながらスープに溶かすと、鮮やかだった赤い色がきれいなピンク色へと変わっていく。スープをすくって口へと運ぶ。ビーツや野菜の味がしっかりと出ていて、素朴で優しい味だ。スメタナの程よい酸味が良いアクセントになっている。温かいスープが空っぽの胃に染み渡っていき、僕はほっと息を吐いた。
「しっかしよお」
皿に残ったミートボールをフォークの先で転がしながら、デンマークさんが口を開く。
「たまには相手してやっでもいんでねえ? おめえ、いっつもあいつから逃げてばっかだべ?」
「嫌ですよ」
デンマークさんの言葉に僕は即答した。
「あの人と一緒にいて何の得があるんですか。疲れるだけです」
「うぜえのといでも何の得もねえけどな」
横から口を挟んだのはノルウェーさんだ。彼はデンマークさんのトレイへと手を伸ばすと、まだ手の着けられていないデザートのプリンをひょいと取り上げた。デンマークさんはすぐにそれに気付いたが、全く気にしていないようだ。咎めるどころか、彼はノルウェーさんにデザート用のスプーンを手渡していた。彼はそれからまた僕に向き直り、話を続ける。
「ロシアだって寂しいんでねえの。おめえと一緒に飯食いてえんだべ」
「まさか」
僕はデンマークさんの言葉を一笑した。
「あの人は単におもちゃがほしいだけです。それにほら」
手にしたスプーンを置き、代わりにスウェーデンさんとフィンランドの間を指さした。全員がそちらへと視線を向ける。指の先には、ロシアさんとリトアニアさん、そしてラトビアの座る席があった。騒がしいこの空間で彼らの会話までは聞こえないが、涙を浮かべるラトビアの横で、ロシアさんは楽しげに笑っていた。
「おもちゃは間に合ってるみたいですよ」
僕の言葉にデンマークさんは肩を竦め、フィンランドから苦笑が漏れる。僕は小さく息を吐き出してから、食事を再開した。付け合わせのパンを手に取ると、ちぎって口の中に放り入れる。
「時々思うけっじょ」
デンマークさんは皿に残った最後のミートボールを胃の中に収めてから、再び口を開いた。隣にいるノルウェーさんが、まだ喋んのかとぼそりと呟くのが聞こえたが、デンマークさんの耳には届かなかったようだ。彼はコーヒーを一口飲んでから言葉を続ける。
「おめえロシアにちいと冷たくねえけ」
「そうですか?」
「んだ。ひとっきり一緒に暮らしてたんだから、少しぐれえ優しくしてもえがっぺ? なあノル?」
「なしてそこで俺に話振んだ」
唐突に名前を出され、ノルウェーさんはプリンをすくう手を止め、眉根を寄せた。デンマークさんからくすねたプリンは、すでにきれいに平らげられている。今彼が食べているのは元々ノルウェーさんのメニューについていたデザートだ。
「だってよお、ノルはたまに俺に冷てえっぺ」
「あんこがうぜえからな」
「ノル君のは愛情の裏返しみたいなものだと思いますけどね」
「あ?」
フィンランドのからかうような言葉に、ノルウェーさんはあからさまに不機嫌そうな顔をした。スウェーデンさんやデンマークさん程ではないが、ノルウェーさんも怒らせると怖い。しかし付き合いが長いせいなのか、それとも彼の隣に座るスウェーデンさんのせいで威圧感に耐性でもできているのだろうか、フィンランドは意に介した様子もなく言葉を続ける。
「だってノル君がターさんに冷たいのって、別に嫌いだからってわけじゃないですよね。素直になれないだけっていうか、だからこそ冷たくしちゃうんだって思ってましたけど」
そう言って、フィンランドはスウェーデンさんに「そう思いますよね?」と同意を求める。スウェーデンさんは無言でこくりと頷いた。ノルウェーさんは不機嫌そうな顔でぷいとそっぽを向いてしまった。
「あんだノル、照れてんのけ」
「うぜえ、調子乗んでね」
ノルウェーさんは頬をつついてくるデンマークさんの指を鬱陶しげに払い退ける。機嫌は悪いが、それでも嫌だとか嫌いだとか言わないノルウェーさんはフィンランドの言う通り素直になれないだけなのだろう。何だか微笑ましくて、僕はくすりと笑った。途端、ノルウェーさんに睨まれたので、咳払いをして誤魔化した。
「ごちそうさま」
と、その時、黙々と食事をしていたアイスランド君がスプーンを置いた。興味がないのか、僕たちの会話に加わる気はないようだ。彼は席を立つと、トレイを持ち上げ「僕もう戻る」と言った。
その様子を見ていたノルウェーさんが、手を伸ばしアイスランド君の袖をくいと引っ張った。引き止められたアイスランド君は不機嫌そうに顔を顰める。
「アイスはこの話やんだか」
「別に。ノーレがダンの事どう思ってようと興味ないだけ」
彼はノルウェーさんの手を払うと、ぷいと目をそらして返却口の方へと歩いていく。ノルウェーさんはそんなアイスランド君の背中に向かって声をかけた。
「やきもちけ。アイスはお兄ちゃんの事好きで好きでたまらねえもんな」
途端、アイスランド君はものすごい勢いで振り返り、ノルウェーさんを睨みつける。
「ノーレがそうやってからかってくるのわかってるから嫌だったの!」
彼はそう叫ぶと、逃げるようにその場から去っていった。
「ありゃ、怒っちゃいましたねえ」
「兄弟揃って素直でねえな」
デンマークさんが去っていくアイスランド君の背を見ながらくつくつと笑う。釣られるように、フィンランドが破顔した。スウェーデンさんもノルウェーさんも、いつもより柔らかい表情をしている。皆、アイスランド君の事がかわいくて仕方ないのだろう。
ひとしきり笑った後、僕はふとロシアさんの方をちらりと見やった。彼はラトビアの頬を伸ばして遊んでいて、リトアニアさんがその様子をおろおろしながら見つめている。席はそれほど離れていないのに、彼は僕の方なんて全く見ようとしなかった。僕がここにいるのに気付いていないわけではないだろうに。
(興味ない、のか)
僕はなんとなく、さっきのアイスランド君の言葉を脳内で反芻した。胸の辺りがずしりと重くなった気がして、僕は首を傾げた。ロシアさんが僕に興味がないというのなら、それはけして悪い事ではない。僕はあの人から逃げたい。あの人は僕の事なんてどうでもいい。それは僕にとって都合が良いはずだ。しかしどうにも気持ちはすっきりせず、僕は誤魔化すように残ったボルシチを口に運んだ。あれだけ温かかったボルシチは、いつの間にか熱を失って冷たくなってしまっていた。
■2
「エストニア! いるかい!?」
三限目の授業が終わったとほぼ同時だ。教室の後方のドアが壊れんばかりの勢いで開かれ、アメリカさんが飛び込んできた。普段からやたらと余裕のある彼にしては珍しく、ずいぶんと慌てた様子だ。ついでに、彼がヨーロッパクラスまでやってくるのも珍しい。僕を指名してくるのはもっと珍しい事だ。
「何か用ですか?」
机に広げてあった教科書を手早くまとめて、僕はアメリカさんのもとへと歩み寄る。僕を見つけたアメリカさんは、安堵したように表情を少しだけ和らげた。
「エストニア、君に頼みがあるんだ」
彼はずいぶんと深刻な面持ちで口を開く。やはりいつもの明るさはなく、僕は少し困惑する。
「頼み、ですか?」
「そう。君だけが頼りなんだ。協力してくれないかい?」
「構いませんけど……一体何を?」
「実は、」
「アメリカ、こんなところで何してんだ」
ちょうどアメリカさんが言葉を続けようとしたその時だ。狙っていたかのようなタイミングで、僕の背後から声がかけられた。アメリカさんが「げ」と短い声を上げて顔を顰める。振り返ると、そこにはイギリスさんが立っていた。腰に手を当てて、胡乱な目で僕たちを見ている。
「ずいぶんと珍しい組み合わせだな。お前、エストニアに何の用だ?」
「……君には関係ないだろ」
アメリカさんはむすっとした表情で、もごもごと呟いた。視線はイギリスさんを避けるかのように横に逸らされている。いつもきっぱりとした物言いをする彼らしくない。イギリスさんもそう感じたのだろう。彼の特徴のある眉毛がぴくりと動いた。
「何か妙な事たくらんでるんじゃないだろうな」
「何でもないよ。ほっといてくれないかい?」
「いいや、お前は目を離すとすぐ問題起こすからな。この前だって……」
「あーもう! うるさいよイギリス!」
途中まで言いかけたイギリスさんの言葉を、アメリカさんは大きな声で遮った。イギリスさんはびっくりしたのか肩を震わせて、一瞬たじろぐ。
「な、何だよ……」
「君とは今話したくないんだぞ!」
彼はわざとらしくかぶりを振ると、唐突に僕の腕を掴んだ。え、と思う間に、アメリカさんは教室の外へと飛び出した。
「あ、アメリカさん!?」
「おいアメリカ! 待てこら!」
イギリスさんの咎めるような声を背に受けながら、アメリカさんは廊下を走り出した。腕を掴まれたままの僕は半ば引きずられるような形で彼の後を追う。
「俺だって別にお前と話なんてしたくないんだからなばかぁ!!」
遠くから、イギリスさんの叫び声が響いた。普段皮肉屋だとか言われているイギリスさんだが、アメリカさんが絡んだ時の彼はずいぶんとわかりやすい性格をしていると思う。僕は思わず微苦笑を浮かべた。
アメリカさんに引っ張られてやってきたのは図書館だった。四限目の開始時間が差し迫っているからだろう。図書館の中に人の姿は見えない。
アメリカさんは他に人がいないのを確認するかのようにぐるりと館内を見渡してから「こっちに来てくれ」と奥へと歩いていく。僕はすぐ後ろに従った。
図書館の奥まった場所にはノートPCが置かれた席が並んでいる。生徒たちが自由に使えるPCコーナーだ。この学園に通い始めた頃に一度だけ来た事があったが、だいぶ古めかしいPCが置かれていたため、それ以来全く覗いていなかった。しかし今並んでいるものはどれもここ数ヶ月に発売された最新型だ。いつの間にか新品へと買い換えたようだ。
彼はその中の一台の前に立つと、おもむろに電源ボタンを押した。
「これなんだけど」
「ああ、そういう事ですか」
ディスプレイに表示された文字を見て、僕はようやくアメリカさんの用件を理解した。
ピ、と音を立ててPCが動き出すと同時に、ディスプレイが点灯する。しかし画面に映し出されたのは、OSのロゴマークではなく、エラーを伝える愛想のないメッセージだった。
「壊しちゃったんですね」
「ノー! 壊れちゃったんだぞ! 俺はちょっと設定とかファイルとかいじったくらいしかしてないよ!」
「うん、多分それが原因ですね」
「イギリスの嫌味に耐えながらようやく経費で新調したのに……ばれたらまたネチネチネチネチ嫌味を言われるに決まってるよ!」
頭を抱えるアメリカさんに僕は思わず苦笑いを浮かべる。なるほど、先ほどイギリスさんにやけに冷たかったのは、これが原因だったのだろう。
「でもなぜ僕に? わざわざイギリスさんのいるヨーロッパクラスに足を運ばなくても、日本さんあたりなら対処してくれたでしょうに」
「日本には、前に頼んだ時に《次はありませんよ》って言われてるんだ……」
「なるほど、二度目ですか」
しゅんとして肩を落とすアメリカさんに、僕はくすりと笑った。世界一の大国にも弱いものはあるらしい。
僕はエラーメッセージを表示したまま沈黙したPCに手を延ばし、キーを叩いた。画面からエラーメッセージが消え、また違うメッセージが表示される。
「直せるかい?」
PCと僕とを交互に見て、アメリカさんが不安そうに問うてくる。僕は画面につらつらと表示されるメッセージを目で追ってから、アメリカさんへと振り返った。
「大丈夫、直せますよ」
「本当かい!?」
不安そうだったアメリカさんの表情が、僕の一言でぱっと明るくなる。まるでいたずらの許しを貰えた子供のようだ。
「良かった! これでイギリスに嫌味を言われなくて済むぞ!」
「ただし、修理には条件があります」
「なんだい、お礼かい? それならハンバーガーでもシェイクでもポテトでも、好きなだけおごるんだぞ! それともドーナツがいいかい? そういえば最近街にうまいドーナツ屋ができてさ――」
彼はもうすっかり解決した気になっているらしく、新しくできたドーナツ屋のメニューについて熱く語りだした。「シュガーグレーズが絶品なんだ!」と言って恍惚の表情を見せる彼の語りを片手だけで遮って、僕は一度咳払いをした。
「特にお礼はいりません。そのかわり」
きょとんと首を傾げるアメリカさんに、僕は人差し指を立てて、言葉を続ける。
「ちゃんとイギリスさんに壊してしまった事を伝えて謝罪しましょう」
途端、アメリカさんの顔が苦虫を噛み潰したような表情へと変わる。あまりの落差に、僕は思わず吹き出してしまった。
結局、アメリカさんが壊してしまった――結局彼は最後まで壊れたのだと主張していたが――PCを直すために、四限目をまるまる費やした。アメリカさんと今度一緒にドーナツ屋へと行く約束を交わしてから別れ、僕は一人食堂へと向かう。腕時計に視線を落とすと、昼休みに入ってすでに三〇分ほど経過していた。
時間が遅いせいだろう、食堂はいつもより人がまばらだった。入り口に貼られたメニューを確認して、食事を終え食堂から出てくる生徒たちを避けながら注文カウンターへと向かう。ついでに、まだ食事をしている知り合いがいないかと食堂内を見渡して――彼の姿を見つけた僕は思わず足を止めた。
昨日、彼がリトアニアさんたちと一緒に座っていた席だ。ロシアさんはそこに一人で座っていた。
彼は、ただ黙々とスプーンを動かしていた。手元へと落とされた瞳はどこか虚ろで、まるで「つまらない」とでも言いたげだった。昨日あれだけ楽しそうだったロシアさんの笑顔は今はどこにもない。
僕はしばらくロシアさんの様子を眺めていた。僕の視線に彼が気付く様子はない。僕は小さく息を吐いて、彼からカウンターへと視線を戻した。昼休み開始時間にはカウンターの中であわただしく動き回っている給仕の女性は、今は暇そうに椅子に座っている。僕はカウンターの前に立つと彼女に声をかけ、注文を告げた。
料理が出てくるまでに大した時間はかからなかった。カウンターに置かれた白い皿をトレイに移し、踵を返す。席はずいぶんと空いていた。僕は誰も使用していないテーブルの横をすり抜けて、ロシアさんの隣にトレイを置いた。ロシアさんはスプーンに口をつけたまま、驚いたような表情で僕を見上げてきた。
「ずいぶんと遅いんですね」
そう訊ねると、ロシアさんは数度目を瞬かせて、それからすぐにまたいつもの笑みを浮かべた。彼はスプーンを置いて、テーブルに肘をついた。
「イギリス君たらひどいんだよ。もうお昼なのに、生徒会の仕事無理矢理手伝わされちゃった」
ふふふ、と彼は楽しそうに笑う。そしてちらりと僕を見て「座りなよ」と椅子を指さした。僕は椅子を引いて、彼の隣に座った。
「おかげでリトアニアにもラトビアにも逃げられちゃった」
「ああ、それで一人だったんですか」
「君は?」
「アメリカさんがPCを一台壊してしまったそうなので、さっきまでその修理を」
「イギリス君もアメリカ君も、二人揃って自分勝手だよねえ」
彼は笑いながら、再びスプーンを持ち上げて食事を再開した。僕もナイフとフォークを手に取り、皿に乗った肉を切り分ける。
「それで」
彼は皿の中のスープをあらかた片づけると、スプーンを置いて僕に向き直った。
「どうして僕の隣に?」
「何の話です?」
手を動かしたまま、僕は答える。
「だっていつも君、僕から逃げてるじゃない」
「そうですね」
彼の言葉を、僕は肯定した。あまりにもあっさり言ったものだから、彼は少しだけ驚いたような顔をしていた。僕は一口大に切った肉にフォークを刺して口に運ぶ。ゆっくりと租借して飲み込んでから、また口を開いた。
「大した意味はないです。ただ、一人で食事するのはつまらないと思っただけですよ」
彼はしばらく無言で僕を見ていたが、やがて口許に手を当てて喉をならした。僕は食事の手を止め、彼を見やった。
「なんですか」
「だって君、変だよ。君じゃないみたい」
熱でもあるのかな、とロシアさんの手が僕の額に伸びる。前髪を指で弾いて触れた彼の手は、僕の体温よりも低く、少しだけひやりとしていた。自らの額にも手を当てて体温を確認する彼から逃れるように身をよじる。
「単なる気まぐれです」
なんだか気恥ずかしくなってしまい、僕は彼から視線をそらした。また目の前の肉へと向き直り、黙々と食事を再開する。そんな僕の態度に彼は少しだけ笑うと、伸ばしたままだった手をリンゴジュースへと移動させた。僕のトレイに乗ったジュースだ。気付いて口を開くよりも先に彼はジュースのストローに口をつけていて、僕は眉を顰める。文句を言っても無駄だとわかっているので、僕は代わりに嘆息し、彼の手からジュースを取り上げた。彼は恨みがましげに僕を見ていたが、すぐに何かを思い出したように「そうだ」と呟いた。
「ねえ、気まぐれついでにさ」
ロシアさんがしだれかかるように、僕に体を寄せてくる。顔を覗き込まれ、僕はつい彼に視線を向けた。彼のすみれ色の瞳が思ったよりも近くにあって、一瞬どきりとする。彼はにっこりと笑って言葉を続けた。
「僕のお願い、一つ聞いてよ」
* * *
午後の授業が終わった。終了を告げるベルを聞きながら、僕は鞄を肩にかけ教室を出る。同じく本日のカリキュラムを終わらせた生徒たちが教室から玄関の方へと流れていく。僕はその流れに逆らうように、玄関とは反対の方向へと歩き出した。
放課後に音楽室へと足を運ぶ事は、僕にとってすでにルーチンワークの一つとなっている。この学園に通い始めてから、僕はずっと合唱部として活動している。メンバーはウクライナさんにリトアニアさん、ラトビア。人数はそう多くないが、奇妙な部活の多いこの学園の中ではかなり真っ当な活動をしていると思う。
魔術部(一般生徒立入禁止!)だのシエスタ部だのと張り紙の貼られた教室を通り抜け、僕は音楽室の前に立った。遮音性の高そうなやたらと重い扉を引く。授業が終わって直行したのだからまだ誰も来てはいないだろうと思っていたのだが、室内には先客がいた。ここにいるのは珍しい顔ぶれで、僕は少し驚いた。
「よっ」
ポーランドさんが、机の上に座りひらひらと手を振っていた。その向かいに、リトアニアさんが苦笑いを浮かべて立っている。部員でないポーランドさんがいる事にも驚いたが、リトアニアさんがここにいるのもずいぶんと珍しい。いつもポーランドさんの相手で忙しく、滅多に顔を出さないのだ。
僕は彼らに軽く挨拶をしてから「二人ともどうしたんですか?」と訊ねた。それに答えたのはポーランドさんで、彼はわざとらしく肩を竦める。
「リトがどうしても部活行きたいって言うから来てやったんよ」
「言ったのはポーだろ。部活に参加してみたいって」
「リトが一人じゃ寂しいと思ってな」
「もー……」
その時、ガララと重い音を立てて教室の扉が開いた。自然と、僕たちの視線がそちらへと向かう。
「あら? ポーランドちゃんじゃない」
ウクライナさんが、扉に手をかけたまま驚いたように目を丸くしていた。その後ろではウクライナさんと一緒に来たらしいラトビアが、パチパチと目を瞬かせている。ウクライナさんはポーランドさんとリトアニアさんを交互に見やると、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「リトアニアちゃんも、今日は参加なのね」
「すみません、全然出られなくて」
「ぷぷ、リト謝ってやんの」
「誰のせいだと思ってるの」
けたけたと笑うポーランドさんに、リトアニアさんは渋面を作る。その様子に、その場にいた皆から笑いが漏れた。
ひとしきり笑った後、ウクライナさんが手を叩き「そろそろ始めよっか」と言った。その言葉を合図に、各々が机を移動させてスペースを作る。空いたスペースに輪になって立つと、僕たちはさっそく発声練習を始めた。
練習は二時間程続いた。ウクライナさんが時計に目をやり「今日はもう終わりにしましょう」と再び手を叩く。彼女の言葉を合図に、僕たちは片づけを始めた。楽譜をしまい、寄せていた机を元の位置に戻す。
ふと外を見やれば、太陽はすでに傾き始めていた。下校途中であろう生徒たちが、校門へと向かって歩くのが見える。
窓際に置かれた机に突っ伏して眠りこけているポーランドさんを起こそうと、リトアニアさんが肩を揺らす。彼はすぐに目を開いたが、寝ぼけているのか小さな声で呻きながら「まだ朝じゃないし……」なんて呟いている。普段ポーランドさんのお守りで忙しいというリトアニアさんだが、確かにポーランドさんの世話は大変そうだ。世話焼きである彼だからこそできるのだろう。僕はまた溜息を吐いているリトアニアさんに苦笑いを向けた。
開けっ放しだったピアノのふたを閉め、机に置いてあった教室の鍵を拾い上げる。手の中でじゃら、と音を鳴らすそれに一度視線を落とし、それから部員たちを見やった。
「戸締まりは僕がやっておきますので、皆さんは先に帰っていいですよ」
「俺も手伝うよ」
「いえ、もう少しピアノの練習をしていきたいので」
リトアニアさんの申し出に、僕はやんわりと首を振る。
「それに、ポーランドさんもだいぶ飽きてきているみたいですし」
そう言って、リトアニアさんの隣へと視線を向ける。彼もつられてそちらへと視線を向けて「ああ……」と嘆息した。彼の隣ではポーランドさんが再び寝入っていた。鞄を枕代わりに抱きかかえ、すやすやと寝息を立てている。こうなってしまうと彼はなかなか起きない。誰かがポーランドさんを寮まで運ばなければならないのだ。
リトアニアさんは額に手を当てて再びため息を吐くと、
「ごめん、じゃあ任せるね」
と申し訳なさそうに言った。彼は眠くてふらふらしているポーランドさんの肩を担ぐ。ウクライナさんがポーランドさんを支えるように彼の背に手を添え、ラトビアが手の塞がっているリトアニアさんの代わりに扉を開いた。
「じゃあエストニアちゃん、後はお願いね」
「はい」
優しげな笑みを浮かべて手を振るウクライナさんに、僕もひらひらと手を振り返す。彼らはポーランドさんを引きずって廊下へと出ていき、音楽室の扉は静かに閉じられた。
途端、室内がしんと静まり返った。元々防音の施された部屋だ。外からの音はあまり聞こえない。グランドピアノの椅子を引けば、足が床に擦れる音がやけに大きく響いた。手にしたままの鍵を机に戻し、椅子に腰掛けると、床に起きっぱなしにしていた鞄を手繰り寄せてサイドポケットに突っ込んであった携帯電話を引っ張りだした。
電源ボタンを押すと、ディスプレイがぱっと点灯する。太陽が傾いたためだろう、音楽室は少しばかり薄暗くなっていて、その光が妙にまぶしかった。
ディスプレイをタップして電話帳を起動する。その中から目的の名前を見つけだすと、通話ボタンを押した。
耳に当てた携帯電話から聞こえるコール音は、三回で途切れた。電話越しの彼は特に挨拶をしてくるでもなく、開口一番に『終わった?』と言った。
「ええ」
僕が答えると、電話はぷつりと切れた。ディスプレイに表示された《通話終了》の文字に、僕は肩をすくめる。通話画面を終了させて再び鞄の中へと放り、ピアノのふたに肘をつく。
しばらくすると、教室の扉がゆっくりと開かれた。そちらへと目をやれば、ロシアさんが様子を窺うように、扉の隙間から顔を覗かせていた。
「もう全員帰りましたよ」
きょろきょろと室内を見回すロシアさんに声をかけると、彼は少しばかり安堵したような、残念そうな、曖昧な表情を見せた。
彼は教室の中へ入り、後ろ手にドアを閉める。そして僕の方へと歩いてくると、ピアノに一番近い席に座った。
「まさか本当にお願いを聞いてくれるとは思わなかったよ」
「……これくらいなら別に構いません」
彼がにこにこと僕を見つめてくるので、僕は彼から目をそらした。ピアノのふたを開き、鍵盤を人差し指で軽く叩く。それほど強く叩いたつもりはなかったのだが、音は室内に反響してずいぶんと大きく聞こえた。
昼休み、ロシアさんは僕に《ピアノが聞きたい》と言った。合唱部の活動中に音楽室から時折聞こえてくるピアノの音が、以前から気になっていたという。
『エストニアのピアノ、聞いてみたいな』と、無邪気に言われれば、特に断る理由なんてなかった。引き受けたところで被害をこうむるような事はないだろうと判断し、僕は彼の頼みを聞き入れた。
「どうせならあなたも部活に参加すれば良かったんじゃないですか?」
部外者だからって拒んだりはしませんよ。そう言うと、彼は曖昧な表情で笑った。
「だって、嫌がるでしょ。僕がいたらさ」
「そんな事は……」
ない、と言う事はできなかった。確かに彼の言う通り、あまり歓迎はされないだろう。ウクライナさんはロシアさんを避けているし、ラトビアだってロシアさんの事を怖がっている。リトアニアさんならば対応もできたろうが、今日はポーランドさんがいた。ポーランドさんもまた、ロシアさんと仲の良くない人物の一人だ。
僕が返事に窮していると、ロシアさんは何でもないように「いいよ、別に」と笑う。
「それよりさ、早く聞かせてよ」
彼が急かすように言うので、僕は鍵盤へと視線を移した。音階を確かめるように鍵盤の上に指を走らせてから、「何かリクエストは?」と問う。彼は少し考えて、
「君の好きな曲でいいよ」
と答えた。それならば、と僕は床に置いた鞄を拾い上げて楽譜を取り出す。ページを捲って譜面台に置くと、僕は鍵盤に指を乗せた。
「練習中の曲ですけど」
そう前置きしてから、僕は鍵盤を叩き始める。グランドピアノから、澄んだ音が室内に響いた。
演奏中、ちらりとロシアさんを見やると、彼は机に肘をついてじっと僕を見ていた。彼にしては珍しく真面目な表情を浮かべていた事に、僕は少し驚いた。どうせ適当に聞き流すだけだろうと思っていたからだ。しかし彼の真面目な顔も僕の視線に気付いたためか、すぐに笑顔に上書きされて消えてしまう。僕は楽譜に視線を戻しながら、何だかもったいない事をしてしまったような気分になった。僕は唇を強く引き結ぶと、鍵盤を叩く指へと意識を集中させた。
楽譜に書かれた最後のフレーズを奏で終え、ピアノの音が消えると、室内が一瞬静まり返った。改めてロシアさんの方を見やると、彼は僕に向かってぱちぱちと手を叩いた。それに応えるように、彼に軽く頭を下げる。
「どうでしたか?」
僕が訊ねると、ロシアさんはにっこりと笑い、答えた。
「あまり上手くないね」
「聴きたいって言ったくせにそれですか」
「聴きたいとは言ったけど誉めてあげるとは言ってないよ」
彼が笑顔で宣う。僕は思わず渋面を作った。この人はどうしてこう、無遠慮なのだろう。もう少し優しい言葉をかけてくれたっていいのに。別に演奏に絶対の自信があったわけではないが、こうもあっさりと否定されるとやはり傷つく。なんだか気持ちがしらけてしまって、僕は楽譜を鞄の中に放り入れ、少々乱暴にピアノの蓋を閉めた。
「もういいですよね。帰りましょう」
鞄を肩にかけて立ち上がる。彼は「うん」とだけ答えて、けれどもしばらく動こうとしなかった。訝しく思い「ロシアさん?」と名前を呼ぶと、彼はようやくのろのろと立ち上がった。
その拍子に、彼のポケットから何かが落ちた。チリ、と小さな音を立てて床に転がったそれを指の先で拾い上げる。何かと思えば、それはストラップだった。ハート型のチャームと鈴が一つついた、小さなストラップだ。
「ああ、それ」
横からロシアさんの手が伸びてきて、ストラップをひょいと取り上げる。
「すっかり忘れてたよ」
彼はそう言って、僕の目の前にそれをかざしてみせた。
「ふふ、かわいいよね」
確かにロシアさん好みのかわいらしいデザインだ。僕が頷くと、彼は満足そうに笑い、それを鞄の中にしまう。あれ、と僕は彼の行動に首を傾げた。ストラップを気に入っているようだが、使わないのだろうか。携帯電話にでも付ければいいのに。しかしわざわざ指摘するような事でもないので、僕は気にしない事にして窓へと向かった。
窓に鍵がかかっているのを確認してから振り返れば、ロシアさんはすでに鞄を持って教室から出ていた。僕は机に置いたままの鍵を拾い上げると、彼の背を追う。
日が落ちて、廊下はずいぶんと暗くなっていた。廊下や、通り過ぎる教室の中にも人の気配はない。皆もう下校してしまったのだろう。
ロシアさんは僕なんて待たずに先に行ってしまうので、僕は歩幅を広げる。彼もそう早く歩いているわけではないので、追いつくのは簡単だった。
ロシアさんの背中がすぐ目の前に迫った。その時だ。彼の静かな声が、僕の耳に飛び込んできた。
「君のピアノは微妙だったけどさ」
彼は振り向く様子も見せず、まるで独り言のように呟く。
「演奏してる時の君は好きだな。きらきらしていて、すてきだったよ」
それだけ言って、彼は口を閉ざした。二人の足音だけが、一定の感覚で静かな廊下に響く。
僕は内心安堵していた。太陽が落ちて暗くなっている事。僕がまだ彼の後ろを歩いている事。こんな状況でなければ、動揺している姿を彼に見られていただろう。
きっと今、僕の顔は夕焼けみたいに真っ赤になっている。熱でもあるのかと思ってしまう程に、僕の頬は熱くなっていた。
ロシアさんのたった一言に、なぜだか僕は、ひどく浮かれていたのだ。
■3
午前中の授業はとにかく眠かった。というのも、昨日はどうにも寝付きが悪く、あまり眠る事ができなかったのだ。その上、外は見事な快晴で、秋だというのにまるで季節を逆行したかのような暖かな日差しが教室内へと降り注いでいた。教科書を読み上げる教師の声が呪文のように聞こえる。僕は教師に気づかれないようこっそりとあくびを漏らした。
意識をギリギリの状態で保ちながら、試練のような授業を何とか耐え切り、僕はベルの音と共に机に突っ伏した。今なら三十秒もあれば眠りにつける気がする。目を閉じるとすぐに意識が遠のくのを感じて、慌てて上体を起こす。まだこの後授業があるのだ。眠ってしまうわけにはいかない。一度大きく伸びをして、のろのろと席を立つ。
「やっほー、エストニア」
と、後ろから朗らかな声がした。振り返れば、そこにはルーマニアさんが立っていた。少しだけ吊り上った赤い目に八重歯という、どこか吸血鬼を思わせる派手な見た目に、人なつっこい笑みを浮かべている。彼は「眠そうだねえ」と僕を見て笑った。
「ちょっと、昨日眠れなくて」
「なになに、悩み事でもあるの?」
「いえ、別にそういうわけでは……」
僕は彼の言葉に首を横に振った。が、ルーマニアさんは僕の返答なんてどうでも良いようで、にこにこと笑いながら「そういう時はさあ」と言葉を続けた。
「魔術部に任しときなよ。悩み事なんてすぐ解決だよ。あ、快眠できる薬の方がいい? それも用意できるけど」
そう言うなり彼はごそごそと鞄をあさり出す。怪しげな小瓶や謎の置物を取り出しては机の上に並べていく。それら一つ一つには白い小さなラベルが張り付けられていて、効果と、ついでに価格らしき文字が書き込まれている。彼の言う「快眠の薬」とやらには、『二〇〇レイ』と書かれていた。馴染みのない通貨に眉を寄せると、彼はそれを手にとって「五十ユーロでいいよ」と言った。
「いや、いりませんから」
「えー、買ってよー。イギリスから部費稼げってせっつかれてるんだよー」
僕が断れば、彼はぶーぶーと膨れ面を見せた。しかしすぐに笑顔に戻り、またごそごそと鞄をあさり始める。
「薬が嫌ならお守りはどう? 金運に健康運、何でもあるよ」
そう言って、彼は鞄から何やら色々と取り出す。次に出てきたのは、手作り感のあるストラップだった。どんぐりを磨いて加工したものや、クローバーをガラスで閉じこめたものなど、様々な種類がある。デザインはどれもかわいらしく、ルーマニアさん曰く「女子に結構人気あるんだよ」との事らしい。値段も、どれも十ユーロ程度で、先ほどの薬よりはだいぶ手を出しやすい。
机に並ぶストラップを何気なく眺めていると、ふとその中の一つに目が止まった。見た事のあるデザインだった。薄桃色の、ハート形のチャームと鈴がついた、小振りのストラップ。僕は思わずそれを手に取った。それに対して、ルーマニアさんは少し驚いたような表情を見せた。
「え、何、エストニアの悩みってそれなの?」
「それ?」
彼の言葉の意図がわからず、思わず聞き返す。彼は僕の手からストラップをひょいと取り上げると、目の前でぷらぷらと揺らしてみせた。
「これ、恋愛成就のお守りだけど」
「は?」
ルーマニアさんの一言に、僕は思わず間の抜けた声を出してしまった。確かに言われてみれば、ハートモチーフのかわいらしいデザインは恋だの愛だのをイメージしやすい。しかし、それを言われるまでそれが「そういうもの」だと、考えつきもしなかった。なぜなら、このストラップが昨日ロシアさんのポケットから落ちたストラップと全く同じデザインだったからだ。間違いない。なぜ同じものを、ルーマニアさんが持っているのか。僕は眉根を寄せる。ルーマニアさんは僕が興味を持ったと思ったのか、ストラップについての説明を始めた。
「結構評判いいんだよ、それ。好きな相手に渡して、受け取ってもらえると恋が叶うんだ」
実績だって結構あるんだよ、なんて言いながら彼は笑う。
「量産してるんですか?」
「手作りだからそんなに数はないけど」
十個くらい。という答えに、僕は顎に手を当てて無言になった。
この時僕は少しばかり困惑していた。これをロシアさんが持っているという事はつまり、ロシアさんに好きな相手がいるという事なのだろうか。今までそんな事考えた事もなかった。彼は人に対して好意を向ける事はあっても、それは恋愛感情とは全く別物だと、心のどこかで思っていたのだ。
「エストニア?」
名前を呼ばれ、僕ははっと我に返った。反応がなかったせいだろう、ルーマニアさんが訝しげに僕を見ていた。僕は軽く頭を振って、頭の中の考えを追い払う。
「どしたの。大丈夫?」
「いえ……」
その時、教室内にベルが鳴り響いた。話しているうちに休憩時間が終わってしまったらしい。ルーマニアさんが、しまった、という顔で、机に出したままだった商品を慌てて鞄にしまう。
「ごめんエストニア、続きはまた今度ね!」
彼はそう言うなり、鞄を肩にかけて教室を飛び出していった。教室の中をぐるりと見回せば、残っているのは僕一人だった。僕も移動しようと、机に広げたままだった教科書を一まとめにする。
さっきまで自分を包んでいた眠気は、いつの間にかすっかり引いていた。次の授業はまともに受けられるだろう。といっても、すでに遅刻が確定しているのだけれど。今更急いでも仕方がないので、のんびりと次の教室へと向かう。誰もいない廊下は静かで、僕の靴音だけがいやによく響いた。
己の足音を聞きながら、僕はあのストラップの事をまた考えていた。
かわいいよね、とストラップを見せたロシアさんの姿が頭をよぎる。誰かにあげるつもりなのだろうか。誰かからもらったものなのかもしれない。だとしたら相手は誰だろう。リトアニアさんあたりだろうか。ロシアさんが彼の事をことさら気に入っている事は良く知っている。
僕は短く息を吐き出した。考えたところで無意味だと自分に言い聞かせる。考えたからといって何かが変わるわけではない。たとえロシアさんが誰かを好きだろうと、僕には関係のない事じゃないか。
「関係ない、のかな」
ぽつりと言葉を呟いて、僕は唇を引き結んだ。胸の辺りがちりちりと痛み、僕は顔を顰める。なぜこんな気持ちになるのか、自分でもさっぱりわからなかった。
頭を軽く振り、ぐるぐると回る思考を振り払う。意識を無理やり次の授業へと切り替えた。遅刻しているのだから、言い訳を用意しなければいけない。そもそも教室に入れてもらえるのだろうか。もし入れなかったら、少し早いけれど昼食をとろうと決める。
そんな事を考えながら廊下の角を曲がり――僕は足を止めた。
廊下の先に、ロシアさんが立っていた。授業はもう始まっているというのに、彼は教室に向かう様子もない。相手に気付かれないように壁に隠れてそっと様子を窺う。一人かと思えば、他にもう一人いるようだ。ロシアさんより一回りほど小さな姿が見えた。
(イギリスさん?)
間違いない。ロシアさんと一緒にいるのはイギリスさんだ。二人は何かを話しているみたいで、彼らの声が微かに僕の耳に届く。しかし距離があるせいで何を話しているかまではわからなかった。
授業が行われている教室へは、この廊下を通らないと辿り着けない。つい隠れてしまったけれど、考えてみれば別に隠れる必要なんてない。堂々と突っ切ればいいだけなのだが、なぜだか僕は少しばかり躊躇していた。相手が生徒会長とあのロシアさんというあまり関わりたくない組み合わせだからというのもあるが、それとはまた違う別の感情が、僕の足を石膏で塗り固めたみたいに硬直させていた。心がざわざわして落ち着かない。
しかしこのままここに立ち尽くしているわけにも行かず、僕は一度頭を引っ込めて、どうしようかと首を捻った。二人が立ち去る様子はないので、割り切って彼らの横を通るしかない。適当に挨拶でもしておけば、変に絡まれる事もないたろう。僕は一度深く息を吐き出し、タイミングを見計らうために廊下の先を覗いた。そしてそのまま固まってしまった。
ロシアさんがあのストラップを、イギリスさんに差し出していた。
イギリスさんは驚いた顔をしていたが、やがて顔を赤くしてストラップをロシアさんの手から奪った。彼はそれを胸ポケットへと丁寧に仕舞うと、二人はまた何かを話し始める。ロシアさんは時折楽しそうに笑っていた。僕は彼らに気付かれないようにそっと後ずさると、教室とは逆の方向へと歩きだした。あの雰囲気の中を突っ切る勇気は、僕にはなかった。
あのストラップを渡したという事は、ロシアさんはイギリスさんの事を好きなのだろうか。そういえば以前も、生徒会の仕事を手伝わされた、なんて話をしていた。二人で仕事をするうちにそういう感情が芽生えても別段おかしくはない。そして、イギリスさんがストラップを受け取ったという事は、つまりそういう事なのだろう。あれは魔術部の作ったものなのだから、その効果や意味をイギリスさんが知らないわけがない。
色々な考えが頭に浮かんでは消え、僕は顔を歪める。ロシアさんが誰を好きだろうと何の関係もないはずだ。ないはずなのに、僕の気持ちは今、ひどく淀んでいた。喉の奥が詰まるような感覚に、片手でネクタイをゆるめる。それでもやはり苦しくて、僕は壁に拳を叩きつける。ぺち、と間抜けな音が廊下に響いた。
* * *
屋上への扉を開けると、心地よい風が頬を撫でた。
空は相変わらず真っ青で、太陽の強い光に僕は目を細める。
遠くから楽しげな笑い声が聞こえてくる。柵の間から校庭を見下ろせば、どこかのクラスがサッカーに勤しんでいた。
僕はしばらく生徒たちがグラウンドを走り回る様子を眺めていたが、やがてそれも飽きてしまって、柵を背にして腰を降ろす。制服が汚れる、なんて考えたのは一瞬で、僕はそのまま体を床に投げ出した。コンクリートの床は太陽に照らされていたせいかじんわりと温かい。突き抜けるような青い空の下、昼寝をするには絶好の場所だ。しかし、目を閉じても、さっきまであった眠気が再び訪れる事はなかった。
自然と溜息が漏れる。空は綺麗に晴れ渡っているというのに、僕の心は変わらずどんよりと曇ったままだ。まるで体が鉛にでもなったかのように重い。原因はわかっている。さっきの事だ。ロシアさんがイギリスさんにあのストラップを渡した事が、僕の心を重くしているのは明らかだった。
ただ、なぜこんなにも凹んでいるのかという事だけは、いまいちよくわからなかった。ロシアさんの好きな相手が誰だろうと、僕には関係ないし、興味だってなかった。
(なのに僕は今ショックを受けている)
縺れてぐちゃぐちゃになった思考が嫌になり、僕は再び目を閉じた。視覚を封じてしまうと、遠くから聞こえる声が少しだけ鮮明になって僕の耳に届く。楽しげな笑い声に身を委ねていると、下の方からベルの音が聞こえてきた。四限目の授業は終わったらしい。今から昼休みだが、食堂に行く気にはなれなかった。行けば、ロシアさんとばったり会ってしまうかもしれない。今は彼の顔を見たくなかったし、もしイギリスさんと一緒にいたら、今以上に凹む自信がある。
僕は思わず自嘲した。まるで、ロシアさんが僕のものであったかのような思考回路だ。実際は、それどころか彼からずっと逃げていたというのに。少し近付けたような気がしただけで、ひどい勘違いだ。実に都合の良い頭をしている。
「なんかもう、どうでもいいや……」
「何がどうでもいいの?」
突然上から降ってきた言葉に、僕は驚いて目を開いた。
僕の顔に影を作るように、誰かが僕を覗き込んでいた。逆光となっているせいで一瞬誰だかわからなかったが、目はすぐに慣れ、その顔がはっきりと見える。
白い肌に薄い金の髪。薄い色素に栄えるすみれ色の瞳が、驚いた僕の顔を映していた。僕は慌てて上体を起こした。
「ロシアさん!?」
「そんなに驚く事ないじゃない」
「いや……だって、何でここに?」
目をぱちぱちと瞬かせる彼に、僕は動揺しつつ問う。彼は怒ったように頬を膨らませて、僕に携帯電話を見せた。
「何でって、君を捜しにきたんだよ。君ってばメールも電話も出ないんだもの」
言われて、僕はポケットから携帯電話を取り出した。ディスプレイをスライドしてロックを解除すると、確かに着信履歴が数件と、メール一通が届いていた。授業中サイレントモードにしていたのを解除していなかったのだ。
メールの差出人はロシアさんだった。開くと、そこには『今どこにいるの?』という短いメッセージが書かれていた。携帯電話から彼へと視線を移す。彼はにこにこと笑っていた。彼がこういう顔をしている時は、少なからず機嫌が悪い事を僕はよく知っている。そしてそれが、僕がメールも電話も確認しなかった事が原因であるのは明白だった。
「すみません……ここにいます」
「もう知ってるよ」
彼は呆れたように答えて、それから僕の隣へと腰を下ろした。床をぺちぺちと叩いて「ここ温かいね」と笑う。僕はというと、まだ困惑していた。
「僕を捜してたって、どういう事です?」
「どういう事って? 僕は君とお昼を一緒に食べようと思っただけだよ」
「いや……だって、イギリスさんは?」
「イギリス君?」
彼は僕の問いに、訝しげな表情を浮かべて首を傾げた。質問の意味がわからないとでも言いたげだ。僕は再び口を開いた。
「だって、さっきまで一緒にいたでしょう? ストラップ、イギリスさんに渡してたじゃないですか」
「見てたの?」
「……はい」
「あのストラップ、どういうものか知ってたんだ」
「……」
僕は頷き、俯いた。心がまたじくじくと痛みだす。こうやって凹むのが嫌で食堂には行かなかったというのに、ロシアさんが来てしまっては結局同じだ。それに、これではまるで、
「妬いてるの?」
僕の心でも読んだかのような彼の一言に、僕はぎくりとした。頬がカッと熱くなって、僕はそれを隠すように膝を抱える。泣きたい気分だった。実際、彼が隣にいなかったら泣いていたかもしれない。そうだ。彼の言うとおり、僕のこの感情は嫉妬だ。彼が選んだのはイギリスさんで、自分が選ばれなかったという事実に嫉妬しているのだ。けれどもそんな事を素直に言えるはずもなく、僕は膝に顔を埋めたまま、黙り込んだ。
彼はしばらくの間、何も喋らなかった。中庭で食事をとる生徒たちのざわめきが、風に乗って耳に届く。彼は今、どんな顔をしているのだろうか。きっと僕に呆れているに違いない。今まで散々逃げてきたくせに、と侮蔑の表情を浮かべているのかもしれないと思うと、怖くて顔を上げる事ができなかった。
けれども、僕の耳に届いたのは呆れでも侮蔑の声でもなく、彼の笑い声だった。くつくつと声を抑えて笑ったかと思うと、僕に「ねえ」と声をかけてきた。
「君さ、勘違いしてるでしょ。あのストラップ、単にイギリス君が落としたのを僕が拾っただけだよ」
「え?」
僕は思わず顔を上げてロシアさんへと振り返った。彼は楽しげに目を細める。
「昨日、イギリス君の手伝いをさせられたじゃない。その時にね。昨日返し忘れたからさっき渡したんだけど」
「え……?」
僕の口からひどく間の抜けた声が漏れた。
勘違い。その言葉を理解するのに、少しばかり時間を要した。上手く働かない脳がようやく言葉を飲み込んだ時、羞恥心で頬がまた熱くなった。ロシアさんの顔を見ていられなくて目をそらす。彼はそんな僕の頬をつついて「リンゴみたい」と笑った。僕はますます恥ずかしくなり、彼の指をいささか乱暴に払い退ける。すると今度は体を寄せてきて、僕に寄りかかってきた。
「……重いです」
と、素直に口にすると彼に腹を殴られた。ぐえ、とくぐもった声が漏れる。機嫌を損ねてしまったか、と痛みに耐えながら横目でそっと彼を見やる。頬を膨らませている姿を想像していたが、彼は特に怒った様子もなく、僕に寄りかかったまま目を伏せていた。
「エストニアはさ」
ぽつりと、彼が言う。
「時々何考えてるのかわからないよ。いつも僕から逃げるのに、僕が離れるのは嫌なの?」
「……すみません」
「怒ってるわけじゃないよ」
彼はくすりと笑って、それから僕の方を見た。至近距離で視線がぶつかる。きれいに磨かれたガラス玉のような瞳に、僕の心臓が跳ねる。トクトクと音を立てる心臓が触れた腕から聞こえてしまっている気がして、僕はロシアさんの肩を軽く押し返した。彼の体はあっさりと僕から離れていった。触れ合っていた部分から伝わっていた熱が消え、僕はそれを何だか寂しく感じた。
寂しい。――ああそうか、僕は寂しかったんだ。ロシアさんが僕から離れてしまう事が。彼の中で僕がいらないものに分類されるのを恐れていたのだ。どうせ僕が必要とされないのならば、最初から彼に近付かなければ良い。僕から逃げてしまえば良いのだと、無意識に思っていた。そうやって自衛をしていたくせに、ロシアさんが他の誰かを見ているのが嫌で、嫉妬をして、落ち込んで。そんな自分はひどく愚かで、滑稽だったに違いない。
その気持ちに気付いた時、僕の目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれた。せき止められていた感情が一気に溢れたみたいだった。眼鏡を外して手の甲で涙を拭う。涙は次から次へと溢れて止まらなかった。
ふと、横からロシアさんの手が伸びてきて、彼の指が僕の髪に触れる。彼は子供をあやすみたいに優しく髪を撫でた。何だかくすぐったくて、僕は泣きながら笑う。
「エストニア」
「……はい」
返事をした僕の声は鼻声になっていて、少し間が抜けていた。そんな僕にロシアさんは微笑みかける。
「僕おなかすいちゃった。エストニアもご飯まだでしょ?」
「あ……ええ、まだ……」
「じゃあ行こう。昼休み、終わっちゃうよ」
ロシアさんは僕の顔を大きな手のひらでわしゃわしゃと拭うと、立ち上がって僕の腕を引いた。歩き出す彼に引きずられるような形で、僕も足を踏み出す。さらさらとした風が濡れた頬を撫でるので、僕は空いた方の手でもう一度涙を拭った。壊れた蛇口のようになっていた僕の目はようやくを落ち着きを取り戻していた。といっても、きっと鏡を見たらひどい顔の自分が映るだろう事は簡単に想像がつく。
ロシアさんの手は相変わらず少し冷たかった。その冷たさが今は心地が良い。先を歩く彼の背を見つめ、僕は唇を引き結ぶ。腕を掴むロシアさんの手を一度剥がして、僕の方からその手を握ると、ロシアさんは少し驚いたような顔をして振り返る。そして僕に向かってふわりと笑った。まるで花がほころぶような、柔らかな笑みだった。
ぐちゃぐちゃになっていた僕の思考は、いつの間にかずいぶんとすっきりとしていた。左の手に彼の体温を感じながら、漠然と思う。
僕はロシアさんに、恋をしていたのだ。
【終】